人間ドッグ
podcastで人間ドッグの話を聞いていたときに、ふと思った。
胃カメラを飲んでいる時の話だったのだが、もしいま、自分が胃カメラを飲んで
ガンなどが発見されたらどうするんだろうか。
もちろん、ステージがどうの、とかそう言った状況にもよるのだろうけど、
治療するという選択をするのかどうか、自信を持って答えられないことに気づいた。
例えば、自分が結婚して、子供がいてと言う状況なら、100%治療します。
でもいま自分は実家で親と暮らしていて、もし自分が近々死んでしまうことになったとしたら、まあ悲しみはもちろんしてくれるのだろうけど、それは抑止力にならないような気がする。いまこれを書いて気づいたけど、自分が死んだら親の老後の面倒をだれがみるのか(弟はいるけど)という問題はあるけど、福祉国家日本にいる限りは、大したことない。
例えば仕事があったら?
いま自分は陶芸を学んでいるところで、これから独立に向けて準備をしていかないといけない。志半ばで終わってしまうことになるが、それでもよいのか?
答えはYES。
はっきりいうと自分は陶芸をやる上で成し遂げたいことはないのだと思う。
日々粘土をこねて形を作っていく生活は楽しいし、すこしずつできることが増えるのは
おもしろくもある。そうやって生活はしていきたいが、だからといって途中で(今回の例えばは病によって)おしまいになったとしても、それはそれで受け入れられてしまう。
今の生活は楽しんでポジティブに日々生活しているが、たとえばその生活が来年まで、となったときに”ああ、もうちょっとああいうことしてたらよかったな”とか思うのだろうか?
”あと1年しかないし、ユーコン川行きたい!”といった類のことはあるが、やり残した感、悔いが残る感はいま考え付く限り思い浮かばない。
それは完全に燃焼しきっているからか、というとそうでもない気がするのだけれど。
陶芸をやり始めたり、自分で施設を運営しだしたりした本当の途中なら思うのかな。
乗り残したことってあるのか。
やり残したことがたくさんある人生もケースによってはいいのかもしれない。
今自分はさっき書いたように来年からの独立に向けて準備が必要な段階。
でも正直言ってあまり道筋が見えていない状況なのだ。
新しいこと、何から手をつけていいのかわからに状況を目の前にすると、不安がつきまとうし、できれば避けたいと思う。
だから治療しないと言う選択をする、これはひとつの要因かもしれない。
いや、まあほんとになったらどう思うかはわかんないけどね。