メディアのせいか

日曜日におやじとHさんと飲みに行く。

海外旅行の話になった時、台湾に行きたいとHさんが話していた。

その流れで、”韓国はちょっと、なんかこわいし”的なことを言う。

 

内心ちょっとびっくりしたが、具体的な根拠や理由はないみたいだった。

こういった話をするときに自分が必ずするのは、

”韓国””韓国人”といったカテゴリーで話すから、”韓国はちょっと”といえるのであって、知り合いや友達に”韓国人の○○さん”がいたら、どう?という話。

 

カテゴリーでみるのではなく、個人にフォーカスすると、なんとなくのイメージで差別的なことなどいえないはずなのだ。

 

その話をしているときにおやじは、おれは友達に韓国人がいても言える的なわけのわからないことをいっていたけれども。そんなこというてなんもメリットないやろ、とおもうが、よくわからない謎の強がり的な雰囲気出しているのでそれ以上話さなかった。

 

でもまあ、そもそもこれってなぜおこるのか。

あまり深く知らないし、考えたことないのになんとなくもっている嫌悪感。差別意識

 

ひとつはメディアがあるだろう。もしくは、自分の近しい人(家族)

こういった発信源から聞いてことをなんとなく自分の意見のようにいってしまう。

 

もうひとつは、人と比べられる機会が多すぎて、自分と比較して劣っているものを作ろうとする意識があるんじゃないかということ。

今の日本社会では、学校にしろ社会にしろ人との比較を繰り返して生きていくことになる。比べるのでなく、違いを認めて尊重し合えたら一番良いのだろうけど。

 

ただ、たとえばかけっこで順位をつけないといったことまでやる必要あるのか、そこまで他者との比較を避けるべきなのかというと、それはそうじゃないと思う。

 

人が生きている限り、自分と他人を比べることは避けて通れないし、そう思ってしまうことは否定すべきではないと思う。それにとらわれすぎなければいい話で、比較があるからより努力して、よりよいものが産まれてきたとおもうからだ。

 

比較することで自分のよいところ、他人の良いところに気がつくような学びができれば良いのかなとは思う。

 

ところで日曜日にMさん、子供達とアイススケートにいこう、と約束していたが、嫁がコロナウイルスが不安やからやっぱりいきません、と連絡が来る。

うーん。

別に武漢でやるわけちゃうんやから、大丈夫ちゃうの。

とは思ったがまあ各家庭の考え方あるからしゃあないわな、とおもいつつ、メディアの影響のすごさを感じた1日。