天然酵母

パンを作ってみた。

朝に酵母、全粒粉、水、塩を混ぜておいた。

 

ややべちゃついていたが、オーブンで二次発酵して、焼いてみる。

基本的には寺田本家にのっていたやりかた。

 

ふつうにおいしかったが、やや中に水分が残っているというか、柔らかすぎるところがあった。あと、外は硬くなりすぎていたのでやはり外側に霧吹きでかけるプロセスは必要かも。

 

あとは、ロケットストーブでもやってみたい。

その場合どうやって焼くのが良いか考えていたが、以前使っていた鉄製の燻製鍋を使用して、

なかに一段かさ上げのパーツがあるので(それがないと下から直火になる)、そこにおいたらオーブンのように使えるのでは?とおもった。

なので明日、ステンレス製などの皿を探してみようかな。

ああ、たのしみ。

いつでも引っ越しできるように

ってのはtomovskyのうた。

いつでも引っ越しできるように荷物を減らそう、という曲である。

 

まあ弟が引っ越しをすることになったのだが、その挨拶がてら、いつものメンバーで集まって食事をしよう、と彼には話していた。

3月中のどこかでという話だったが、なんと彼は3月8日にはもう東京に行くとのこと。いやそれはよいうてくれ!

 

前から言うてたのにそれはないやろ、といらっとした。

 

なんでいらっとするんかな、というのをよくよく考えてみると、べつに反故にされたからというよりも、みんなでの集まりが彼の中で優先順位が低くなっているのが目に見えてわかっていたからだ。

 

以前からみんなで集まることに対して消極的な様子は見せていた。

ディズニーにはまりだしてから特に。

気づいてはいたが、それでも会う機会を作っていけば、まあそれなりに楽しむだろうとも思っていたが、そうでもなさそうな感じが続いていた。

 

生きて行く中で、いろいろ成長したり、あたらしいことを経験する中で新しいステージにいく、だからいままでのところにこだわらず進むというのは、わかる。

というか最近、仲間の婚活をサポートしたり、新しい仕事を始めた仲間もいたりして、なんだかみんなちょっと違うステージに行く時期(自分も含め。窯を買う話もおとといあった)にきている感じはあった。

 

でも、やっぱりそれでも自分はみんなで集まる時間は楽しいし、大事にしたいからこそ、そうやってどうでもよさそうにされるのがつらいし、さみしい。

新しい楽しいことがあったとしても、これはこれで楽しいと自分は思うからだ。

 

とか作業中に考えていたけれども、よく考えたらラインのなかでも彼が呼びかけたことに反応が薄かったり、そもそも予定を送れと言っても送ってこない人たちがいたり、きっかけはそういうのもあったのでは、とおもう。というか、なんでスルーなんやろとかもいうてたしな。彼は相変わらずズバッと見切る。

 

奄美に行って改めて思うけれども、現代の日本人のコミュニケーションの濃度や、言葉の使い方(やり過ごすような言葉や社交辞令)は自分にはあってないと思う。

かといってなにわや長田的なディープなコミュニケーション、奄美や美山のような人にあれこれいわれるようなコミュニティもうっとうしそうやしなぁ。

自分は何があっているのか。議論したいのかな、ともおもうけれども。

酒場で話し合うってのも嫌やし。

 

でも、都会で馴染みの店あって、みたいな生活はしたことないのでいっぺんしてもよいかもしれない。

 

話がとっ散らかったがとりあえず29日に集まることになった。さてどうくるか。

 

遊びか仕事か

遊びの約束をする時、まあ特定の人間であるが、予定を送ると宣言しておきながら送ってこないと言うことをずっと繰り返している。

ほんとにこんな低レベルなこともできないやつとよく付き合ってるよな、ともおもうが、まあなんとなく、こちらからもう一度予定を聞くなどしている。

 

〜までにやる、というはなし。

それ絶対仕事やったらちゃんとやってるやろ、とおもう。

遊びなら適当にやって許されんのか?

 

そもそも仕事はこれぐらいの力加減で遊びはこのぐらい、とかわけるの自体がダサいような気がする。

別に分ける必要なくない?その表裏感いるか?と思う。

 

遊びにストイックにやりましょう、というわけではないけど。

きちんとやっていなくても責められる必要もないけど。

 

でもふつうのことはふつうにやればよくない?とおもった。

 

でも今日noteで遅刻が本気で直らないというか、朝同じ時間おきていくのがあまりにも苦痛でフリーランスになって人の記事を読んで、無理なもんは無理なのかもなと思う。

 

だからまあ別の方法を考えるしかないかもしれない。

 

マッキーが覚醒剤で捕まるが、えー!とも思わなくなってきている。

一度やっていると言うのもあるかもしれないが、芸能人が覚醒剤をやっているのが当たり前すぎてなんとも思わない。

取り締まりをしている警察官とかは、こうやって芸能人を捕まえて啓発というか見せしめ的な感じでやってる感じなのだろうか?

ほらみてみぃ!みたいな感じか。ざまあみろなのか。

でもあんまり意味はないような気はするけど、たくさん捕まえても。

喜ぶのは週刊誌ぐらいちゃうか。

そもそも覚醒剤誰が開発したんよ、あかんであれは。

level up

Iくんと昨日ボルダリングに。

そこで帰り21:30ぐらい、帰りに食事するかという話の中で、自分はしないといった。

というか一昨日ぐらいに会った時に俺は食事しないよ、というてたんやけど。

 

それを聞いた彼は、じゃあ彼女がいま家に来ているから作ってもらおうかな、とのこと。

本人がいないけれども彼氏の家に行っている。いつ帰るかわからんのに。

 

それって家で何してんの?と聞くとyoutubeとか見ているんじゃないですかー、と。

まあいつものことなんやろう。

書いていて思ったけど、洗い物片付けたり洗濯してあげたりしてるんかもしれない。

 

えーうそやろ、とおもう。

そんなことに時間を割くってどうなんやろ。

 

好きな人のお世話してあげるのが楽しい、うれしい的な? 

 

ほんまかいな、と思うし自分やったらするのもされるのもいやというか。

 

その時間あったら自分磨こうよ、とおもう。

 

ていうか多分この先もし結婚とかして子供できたら絶対やってくれないだろうし、むしろいらいらされるパターンちゃうの。

今は就活終わって暇やからそう言うことになってるんやろけど。

 

とか思っていたら今日昼間teitterでカニコーセン氏のnoteをみる。

そこで外でお父さん同士でCVS飲みしているときに、嫁の愚痴言うんじゃなくてどうやったら楽しく嫁さんと話ができるかって話ししてる言うてたで。

 

今までしてくれてたことがずっと続けられないなら、最初からやめといたほうがええようにも思う。やってもらってた側はいままでやってくれてたのになんでやらへんねん、と思ってしまうやろうし。そんなことでいらいらすんのんしんどない、とおもった。

 

おとうとがディズニーのバイトに受かる。すばらしい、千葉に単身赴任的な。

猫がかわいそうだが、、まあ仕方ないのかもしれない。

なんだか最近ずっと感じているが、物事がいろいろと動き始める時期に来ているのかもしれない。自分の周りで。おやじもそうやしね。

 

 

youtube

昨日、おとといと久々に動画を撮影した。

 

結構前から撮りたいと思っていた、妄想ニホン料理のパクリ番組とY字バランス収録。

 

Y字のほうはまあ、、ぐだぐだではあるだろう(まだみていない)

 

料理の方は、よいかんじ。

テンポ感や音楽の使いかた、押さえておくべきカットなど、見本があるからやりやすい。といってもちゃんと撮れていない画があったりしているが。

 

でもまあちょっといろいろとひろげていくことができそうなので楽しみ。

 

そして昨日のうちに編集。結局4から5時間かけたのか。

 

imovieがOS更新してから白飛びするのでそのあたりもなんとかしなければ・・・。

 

SDカードを買ったり、マイクも一眼レフで撮影するなら必須やなと感じた。

 

今日陶芸の方は寒いってのもあってまったく気持ち入らず。

ときどき、なんのためにやってるのかわからなくなる。

とりあえず、目の前にやれそうなことがあるからそれに集中していくことを言い聞かせて今日も生きている。

 

ダル

山食音でダルを食べ以来、色々自分が作っているスパイスってほんまに必要だったのか疑問になってきて、今日はぐっと減らしてみた。

確かホールでマスタードシードフェンネル、クミン、とうがらし。パウダーはターメリックだけ。

 

ちょっと近いような味になったように思う。

あと見た目も近づけたように思う。

なんというか、滋味深い味というか、ちょっと薬膳っぽいというか。

ターメリックだけでもいいかもしれない。

個人的にはいままでコリアンダーの甘い食欲をそそる香りが好きだけれども、いれると山食音のダルのような黄色にならないような気がして、今日はやめておいた。

 

考えてみると、いろいろ入れすぎるとどれがどう作用してどこの味になっているのかがよくわからない。

それが毎日のこととなって行くと、ほんまに必要なのはどれなのか、何がどう効いているのかわからないままになってしまう。

 

今日はそういえば、チリパウダーをいれていない。

いつも必ず入れているが、ホールのままとうがらしをいれるだけで、ちょっとピリッと効くことがわかったので、肉系カレーなど辛さを強調したいとき以外は別に使わなくてよいことがわかる。

メディアのせいか

日曜日におやじとHさんと飲みに行く。

海外旅行の話になった時、台湾に行きたいとHさんが話していた。

その流れで、”韓国はちょっと、なんかこわいし”的なことを言う。

 

内心ちょっとびっくりしたが、具体的な根拠や理由はないみたいだった。

こういった話をするときに自分が必ずするのは、

”韓国””韓国人”といったカテゴリーで話すから、”韓国はちょっと”といえるのであって、知り合いや友達に”韓国人の○○さん”がいたら、どう?という話。

 

カテゴリーでみるのではなく、個人にフォーカスすると、なんとなくのイメージで差別的なことなどいえないはずなのだ。

 

その話をしているときにおやじは、おれは友達に韓国人がいても言える的なわけのわからないことをいっていたけれども。そんなこというてなんもメリットないやろ、とおもうが、よくわからない謎の強がり的な雰囲気出しているのでそれ以上話さなかった。

 

でもまあ、そもそもこれってなぜおこるのか。

あまり深く知らないし、考えたことないのになんとなくもっている嫌悪感。差別意識

 

ひとつはメディアがあるだろう。もしくは、自分の近しい人(家族)

こういった発信源から聞いてことをなんとなく自分の意見のようにいってしまう。

 

もうひとつは、人と比べられる機会が多すぎて、自分と比較して劣っているものを作ろうとする意識があるんじゃないかということ。

今の日本社会では、学校にしろ社会にしろ人との比較を繰り返して生きていくことになる。比べるのでなく、違いを認めて尊重し合えたら一番良いのだろうけど。

 

ただ、たとえばかけっこで順位をつけないといったことまでやる必要あるのか、そこまで他者との比較を避けるべきなのかというと、それはそうじゃないと思う。

 

人が生きている限り、自分と他人を比べることは避けて通れないし、そう思ってしまうことは否定すべきではないと思う。それにとらわれすぎなければいい話で、比較があるからより努力して、よりよいものが産まれてきたとおもうからだ。

 

比較することで自分のよいところ、他人の良いところに気がつくような学びができれば良いのかなとは思う。

 

ところで日曜日にMさん、子供達とアイススケートにいこう、と約束していたが、嫁がコロナウイルスが不安やからやっぱりいきません、と連絡が来る。

うーん。

別に武漢でやるわけちゃうんやから、大丈夫ちゃうの。

とは思ったがまあ各家庭の考え方あるからしゃあないわな、とおもいつつ、メディアの影響のすごさを感じた1日。